満州映画協会と李香蘭
 駅で大きなポスターが目に付きます。劇団四季の李香蘭ですね。この人物、結構評価が分かれていて、歴史的にはなかなか面白い人物です。例の満州映画協会の大女優ですね。
 一般に、この李香蘭が活躍した満州映画協会というのは日本の国策会社という一面も持ち、ちょっと不思議な会社ですね。この会社自体は、満州国政府と言う実態は?なところと南満州鉄道株式会社が出資して1937年(昭和12)8月に設立されました。とんでもないのは満州国の法律によって、満州国にでの中国語映画の独占的製作権と日本を含む外国映画の配給権という2つの権利を1社で独占したことでしょう。まあ、こういった強力な独占権を有するので国策会社なんでしょうね?この流れで考えると、マイクロソフトなんか米国の国策会社の地位につけるのでは?そんな馬鹿な考えが湧いてきてしまいますね。
 まあ、資本の威力は絶大で、設立から2年後の1939年には東洋一の撮影所が完成しているようです。それでも記録によれば、100坪程度のスタジオ6棟からなる撮影所ですね。これでも東洋一!
 そして、なんといっても、この年、満州映画協会に強力な人間が現れます。例の甘粕正彦氏ですね。一応、この映画社の目的というか・・・は、満州の地に映画文化を根付かせる目的もあって、俳優は中国人まあ、満人ですね、この人たちを養成して出演させるとともに、脚本家や監督、そしてカメラマンなども中国人を養成して制作活動を行っていましたね。
 まあ、日本の国策会社かもしれませんが、文化事業ですから満州国の人間にとっても力を入れた分野だったのではないかと思います。だって、娯楽の王様ですからね。
 それでも、理事長に就任した甘粕氏というのもちょっと物議を醸し出す要素をもっていますね。なんといっても甘粕事件で有名ですからね。
 ちょっと寄り道して甘粕事件にも触れておきましょう。
 甘粕事件といえば、関東大震災とそれに伴う混乱時期に大杉栄を殺した事件ですね。事件は1923年(大正12)9月16日、反体制的な立場では軍隊や警察が震災の混乱に乗じて社会主義者をはじめ朝鮮人、中国人を殺害したというやつです。ちょっと見方を変えると、一般的な国民が悪の毒牙にかからぬように保護する手段として、当時不穏分子として考えられていた人々を隔離するため強硬手段をとったともいえるやつです。現実問題として、不穏分子は組織化されて居らず、脅威になり得なかったために、まあ、虐殺事件となってしまったものですね。潜在的恐怖が引き起こした事件ともいえるかも知れません。
 さて、関東大震災の際、甘粕正彦大尉は東京憲兵隊麹町分隊長として、東京憲兵隊本部付森慶次郎曹長と計り、大杉栄、伊藤野枝と甥の橘宗一など無政府主義者が不逞行為に及ぶ恐れがあるとして、憲兵司令部だか東京憲兵隊本部だかで絞殺し、遺体を古井戸に投げ込み隠滅を図ります。
 この事件が明るみに出るきっかけとなるのは、大杉が行方不明と知り、友人の安成二郎などが調べ始め、9月20日になると『時事新報』『読売新聞』も号外で大杉殺害を報じたので、軍部も口に戸は立てられず、それと同時に軍と警察の対立とかのごたごたもあって、即日、甘粕大尉は軍法会議に送致ということになります。結果として、関東大震災によって戒厳司令部の司令官となった福田雅太郎司令官は更迭、あとは置きまりのように、甘粕まで連なる命令系統の要人である憲兵司令官、東京憲兵隊長を停職処分として、9月24日には、早くも事件の概要を発表しています。これに比べると、近頃の警察の不祥事は・・・まあ、やめておきましょうね。報道各位は頑張らないとね!だって、この頃は軍をも動かすだけの力を報道は持ったともいえますからね。
 そして軍法会議は12月4日結審し、甘粕に懲役10年の判決を下しています。しかし、甘粕は1926年10月に釈放され、陸軍の費用でフランスへ留学?していますね。まあ、そんな事件です。大杉栄の遺骨に関してもちょっとした事件があって興味深いですが割愛ですね。
 まあ、こんなことの後で、フランス帰りの洋行紳士・文化人?として満州へ、後の1932年(昭和7)には満州国民政部警務司長とか協和会中央本部総務部長などもやっています。まあ、満州国建設のための特務機関の責任者として、闇の世界に君臨していたのかもしれません。
 さて、こういった背景があるためか、満州映画協会が製作した映画はほとんどが、軽い娯楽作品で、あまり政治的な意味合いを持っているような、お堅い映画は多分ないのでは?なんて思いますが、まあ、せいぜい日満親善のプロパガンダ的な要素をもったものがあったりもしますかね?それでも、そういった背景から、ちょっと不思議な雰囲気を醸し出しているのかもしれません。
 さて、今後の調査の手がかりとして、有名な作品だけでも上げておきましょう。
 柴田天馬脚本・大谷俊夫監督の『えん脂』(1942)
 島津保次郎脚本・監督の『私の鴬』(1943) 主演香蘭でしょうね。(調査で引っかかったのがこの2本とはちょっと情けないですが・・・)
 さて、李香蘭こと山口淑子ですね。これもまた厄介ですね。日本人が中国人スターとして活躍したのですからね。その上、日本で人気が急上昇、結局日本にて日華親善映画とかいうカテゴリーの作品に出演して、かっこいい日本男児を慕う中国娘の役で大当たりを取りましたね。まあ、このためで、終戦後の価値観の逆転で苦労する羽目になるというわけですね。