幸福って何だろう?
 有るときは気づかない、無くなってから気づくものっていろいろありますね。そういえば、興味の対象もそんなものですね。美しいと思って遠くで見ていたものも、手に取った瞬間その美しさは失われてしまったり、やはり野に置け蓮華草の類ですかね。遠くで思うものには憧れがちょっと味付けしてくれて良く見えることがあるということですかね?
 しかし、見慣れたものがなくなると、そこには、さびしさが彩る美しさが生まれたりするのかもしれません。もしくは、初めてその美しさに気づくのかもしれませんね。失っても別に気にならないものだってありますがまったく不思議なものです。
 さて、ものの存在というのはどういったものなのでしょうか?存在というのはちょっと厄介ですね。存在しないものと思われるものも、存在しますからね。実在するものは存在する。これはあたりまえ、でも、名詞として存在はするが、本当はいないものだって、存在しますね。たとえばペガサスのようなもの、これだって存在しますからね。まったく、象徴的に存在するものっていうのも存在ですから厄介です。
 そういえば、経済学で言う市場というのも、どうも、実在というより経済活動が行われる場と言う意味では存在していますが、ちょっと、そんな場とか言う概念は実在物とは言いにくいですからね。そうなると、人間が思考できる範囲のものが存在する。名前も付けようがない、人間が把握できない物は存在していないということですかね?
 存在とは、思考の対象になるものですかね??またおかしなことを考えていますが存在というものは昔からそういった不思議なものなんでしょうね?
 私のような凡人にはよくわかりませんね。オッカムのウイリアムでも必要です。考えることがいやになったら考えることをすっぱりと殺ぎ落としてしまう必要があるかもしれませんね。そうね、必要以上の仮説の導入は、かえって混乱を招きますからね。何事も自分の思考の能力の限界を超えたことをしてはいけないということなんでしょう。
 思い描くことによって物は存在するものへと変わってくるのかもしれませんね。そういえば、恐怖なんかは実在物ではなさそうですが、存在しますね。不安もそうですね。幸福も・・・人間の心によって作られるすべての物が存在の可能性そのものですかね。思考せよ!されば生まれん!というところですかね。そうなると、何か楽しいことを考えつづけないといけないということになりますかね?
 そうなると、思い描けることが少ないと、幸せにはなれないということですかね?ひょっとするとそうなのかもしれませんね。
 そういえば、幸福って欲求が満たされるときに感じますから、何も欲求を持たないと不幸になるということですかね?もしかすると、欲求に対して、どれだけの満足を求めているかが、重要なのかもしれませんね。これだけしたから、これだけの満足が得られるだろうと思うことこそが、良く生きるための秘訣なのかもしれませんね。過大を求めることなく、一歩一歩、一つずつ確実に手に入れながらというのが良いのかもしれませんね。
 あれあれ、また堂堂巡りをしているようです。何を思って書き始めたのやら?多分、純粋に楽しみのためですかね?もしかしたら、幸福なのかもしれませんね!
 幸福って、思い巡らし、そしてそこから何かが得られることによって味わえるということでしょうね。なるほど、哲学者は至福の時を味わえるし、同時に絶望という病にも取り付かれやすいんですね。これは哲学者が非常に短命かもしくは非常に長寿を全うすることと関係あるんでしょうかね?あれあれ、また妙なことを考えている、まったく困ったものです。