有ることは無いことで、無いは有ること
 さて、4月が近づいてきました。また、インターネット上でさまざまな変動が出てくることでしょう。なんといっても学生の身分の変化が大きな変動を起こすわけですね。
 だって、夜更かししていて、朝10時ごろ起きて、午後から授業という人たちが、社会人としての一歩を踏み出すわけですから、自動的に遅くとも1時ごろまでに寝て、7時ごろには起き出さないといけなくなるわけですからね。そして、同時にホームページの更新も、チャットの面子も変化が出てくるということなのでしょう。そして、興味の対象も変わっていくというわけですね。
 興味の対象が変わっていくというのは別段悪いことではありませんね。変化はより大きな幅を持たせることになりますから。まあ、好奇心とその好奇心がどれだけ深く広くなるかの問題ですからね。
 しかし、現実にすりつぶされてしまう人だっていますね。まあ、例によって5月病が発症するということですかね。理想と現実の狭間であがくことになるわけですからね。しかし、大学って良いところでしたね。今ごろになってつくづく思います。一応、勉強はしていたつもりですがそれでも、時間が十分にあり好きなことをずいぶんすることができましたからね。
 確かに、あの時代の自由な時間でいまも助けれれている部分があります。自分の大学での専門以外の知識の基本というのは、現在の知識の核になるものでしたからね。結局、脳みその柔軟な時期に、より多くの知識を詰め込んでおく必要があるようです。まあ、偏ることがあるかもしれませんが、何かを調べていくときの道しるべになるようなキーワードが頭の中にあれば、それから関連付けて、答えであるとか、より深い知識を身につけることができるということなんでしょうね。
 近頃、インターネット上で、さまざまな情報を手に入れるkとをしていますが、上位の情報源を押さえていくと、その下位へと情報をたどっていくことができますから面白いですね。そういった出発点を知識が教えてくれます。また、階層をたどることで、知識を増やし、更なる知識の扉を開く鍵へと導いてくれますね。
 しかし、ちょっと不思議なのは、学生時代、中学から大学まで、英語をやっていましたが。インターネットを利用するようになって、多少読めるようになってきましたね。やはり、必要がないと、語学は身につかないのかもしれません。もう少し、英文に慣れてきて自由に読めるようになったら、今度は書くこともまじめに覚えないといけませんね。しかし、学校で習った文法はあまり役に立ちませんね。まあ、文法で読むわけではないですからね。でも、文法を知っていれば、正確に読めることにつながりますが、それほど気にしなくなりましたね。ただ、そういう風に書くものだという感じですかね。
 どうも、自由に考えることができるようになるには、非常にたくさんの知識が必要な気がします。自由に生きるためには?やはりそれだけ生きるための知識が必要なのかもしれません。知らないことによって生きるための自由度が狭まっている可能性もありますね。
 なんだか、いまさらながら、自由に生きるために多くの学習をしなければならないということですかね?不思議なものです。自由である時間を、別な拘束の枠の中にさらして学習することで自由になれるんですからね。確かに不思議ですね。しかし、高度な技術は高い収入を短時間に得られます。知識を資本とすることも可能ということですかね?しかし、そういったことができる時間って、青年時代にしかありませんからね。少年老い易く学なりがたしですかね。昔も今もこれは不変の真理なんでしょうか?有り余る時間があるとき、人は無為に過ごし、時間がなくなると初めてそれに気づくというやつですかね。どうも、有り余るほどたくさんあることは無いことと同じで、不足があることを思い知らせてくれるのですかね?大切なものは失ってからわかるというのと同じということですね。まったく厄介です。