潜水艦報道に見られる日米格差?
 ロシアの潜水艦の沈没関連を調べていて、ちょっと気付いたことがありますね。それは米国Yahooのニュースからリンクされているものですね。日本のYahooも同様の形式をもってはいますが、内容的にちょっと違うような気がします。日本であると、ロシアの潜水艦関連のサイトへを関連リンクとしていますが、米国Yahooだとちょっと違った感じですね。
 さまざまなニュースソースと事件に対する見解をリンクさせることで、事件の周辺事情へと広げていっています。そして、そこでは冷戦下で培われてしまった相互不信の問題であるとか、国際協力のあり方などが論点と移ってきています。単に事故が起こった。その事故はどんな潜水艦なんだ?という単純なものから、救助のための方策として取られているさまざまな事柄へとも発展しています。意外と高度な問題提起を行ったりもしますね。
 それに、ニュース記事自体が、日本の物よりはるかに長文ですね。なんとなく、米国のものを見ているとネット上のニュースが、すでに一般の新聞と肩を並べるだけの権威をもっているかのように感じられます。
 まあ、ニュース報道の文責がちょっと日本と違うような感じですからね。通信社や新聞社に属してはいるが、自己の名前で記事を書いていますからね。そういったものが、その記者の独自性を発揮する機会となって現れてくるのかもしれません。
 確かに、よほど特殊なニュースソースを持つのでなければ、ニュース報道も全て同じことを述べるに過ぎないでしょうからね。しかし、同じようなニュースソースを元に、さまざまな味付けをするという意味では、記者の役割が大きいのかもしれませんね。
 まあ、こういった社会性のあるニュース報道がアメリカの基本的な形式なんですかね?それに対して日本は?確かに周辺知識の解説はつきますね。今回事故にあった潜水艦が、オスカークラスのもので、そのタイプUであり・・・とか、そういったデータ的なものですね。そして、事件・事故の性格、まあ歴史的な位置付けがある程度為されたあとで、何らかのコメントが為されるという形態です。
 こうなると、事件の衝撃が冷め遣らぬうちに、さまざまな思考が為され、それが報じられ次の機会によりよき対策が為されるように世論を誘導していくかのように見えます。これがアメリカ流なんですかね?
 それに対して、日本だと大抵は法制化がどうだとか、監督官庁の対応が悪いだとか、まあそういったコメントが後からついてまわるような感じですね。
 どうも、国民性の違いというのは、さまざまな部分に出てくるのかな?なんって思いますね。なんだか、危機管理意識というものが形作られる土壌が日本には無いのかな?なんって思いますね。基本は喉もと過ぎれば熱さを忘れるというパターンは共通なんでしょうが、熱いうちにその教訓を手に入れるのと、ただ漫然とその熱さが通り過ぎるのを待つというものの差なんですかね?なんとなく、ニュース報道の日本と米国の差を眺めるとそんな感じがしますね。
 さて、日本では、国際協力の在り方や、相互援助などについて何か具体的な動きはあるのでしょうかね?これもちょっと気になりますね。まあ、潜水艦という戦争道具ですから、ちょっと複雑な問題かもしれませんがね。しかし、NATO各国は当然のことのように動きがあるんですからね、これも不思議なものです。