オリジナルについて
 近頃DVDで映像を見ているます。なんとシャープな映像!と思ってしまいますね。特にLDやビデオの映像を見たりするとですね。まあ、LDのハイエンド機で見るとちょっとは違うのでしょうが、特にそのためかもしれませんが、その映像のシャープさには驚いてしまいます。まあ、音声に関してはそれほど差は感じません。こちらの方は再生装置がちょっと貧弱ですから、今時真空管アンプですから、しかも自家製ですのでね。
 さて今見ているのは2010年です。例の2001年宇宙の旅の続編ですね。そういえば、どちらも、米ソ対決を前提に作られた作品ですね。まあ、原作を超えて、ソ連が崩壊してしまいましたし、米ソ対決も過去のものです。
 しかし、困ったのはやはりあちらこちらで経済的な格差が存在することですね。工業の発達が古典的な階級をなくし、あたらな階級として労働階級を生み出し、その階級闘争の中からソ連が誕生ですかね。
 しかし、技術の進歩はどうなっているのでしょうかね?宇宙征服の夢の方は着実に進んではいるようですが、かつての東西対決時代の勢いは失われていますね。
 コンピュータも受動的なことしかできませんねHALのようなコンピュータは未だに誕生しませんし、噂も聞きませんね。でも、HALとかああいった話し相手になるようなコンピュータができると、やっぱり不自然かもしれませんね。機械とお話なんて、きちがいじみている気がします。機械は黙っているのに限りますね。でも、近頃はペットロボットの類がかなり発達してきてしまいました。これも好きになれそうもありませんね。所詮プログラムの産物ですから。
 でも、ちょっとだけ悪くないなと思うこともあります。近頃、妙な人間が多いような気がします。きわめて自分勝手な人間ですね。自分の仲間を作るためには手段を選ばず、特定の価値観を押し付けて配下にしようとする人間ですね。そして、かなり閉鎖的な空間を作り出して何人かの気の合った人間だけとかかわりあうというやつです。
 まあ、このパターン自体は昔からありますが、この手の者が多くなったような気がします。当人たちは独自性があると信じていますが、実はそのコアになる部分はどこかの受け売りか、すでにあるものを利用し、ちょうどおままごとのようなことをやっていますね。創造性というより、与えられたものをちょっとカスタマイズして、自分の物としているようなものです。
 そういえば、コンピュータ画面などはその好例かもしれませんね。そういえば、情報化の時代というのはひょっとして受け売りの時代なのかもしれませんね。情報を受発信するとき、受が主になるか発が主になるか?そのあたりの問題かもしれませんね。独自の考えを展開することって結構難しいことですからね。私もここでオリジナルっぽいことを書いていますが、思考の原点になっていることは、何らかの種があってその種を展開していくことによって考えていくしかないような気がします。今回はレーザーディスクの映像とDVDの映像、そして2010年という映画ですね。いつのまにかHALの機能、そしてペットロボットへ、それから社会批評と思考の核となる部分ですからね。
 まあ、刺激がないと思考は生まれないのかもしれませんね。しかし、一つ確実にいえそうなことがあります。それは語彙力ですね。語彙が貧弱だと思考に結びつくものを見出すことはできないのではないかということです。知らないものは見つけられないというやつですね。おぼろげでも、その概念を知っていれば見つかるものをと思うときがあります。哲学的な問いになりますが、情報の処理能力は、その情報の意味を知るものだけが受け取れるということですかね?だって「ヤオイ」って何だろうという世界ですね。ヤオイという言葉を知らないと、ヤオイといわれても何か理解できません。そして、その物語る主題もわからないということですね。
 こいつは、インターネットでお目にかかってわからなくて調べましたね。何のことはない「山なし」「落ちなし」「意味なし」というやつの頭文字らしいですね。つまり、キャラクターのもじりによる、アニメや漫画関連の同人のやつですね。しかし、あれって何が面白いのでしょうね?なんとなくお人形さん遊びの延長のような感じがしますがね。しかし、近頃は大金をはたいて冊子を作成して売買しているのですから。秋葉原にはその手のお店が結構増えていますからね。何が面白いのやら?やっぱり、完全オリジナルを目指すのが良いですね。そうは言っても完全オリジナルの思考はどうやったら生まれるのやら?これは永遠の課題ですね。