ローマの道 その2
 ローマも帝政期に入るといろいろな変化が現れます。紀元前27年あたりからですかね。社会機構改革も数多く行われた時期でもありますね。
 道路の管理も道路世話役curatores viarumという専門役人が置かれていたのだそうです。これはどうやら皇帝直下の役人のようですね。そうすると、ローマの皇帝って軍事権の一環として、道路使用権もちゃんと押さえていたということですかね。兵站が途切れれば敗北するし、兵が進められなければ侵攻作戦だってできませんからね。支配権の確立というものを道路というもので押さえていたんですかね?
 ふと思うのですが、日本との文化の違いはもしかしてこのあたりにあるのかもしれませんね。ヨーロッパでは陸上交通が発達していて、これを重視したというのでは?日本は陸上交通を軽視し続けていた?ちょっと追求する価値があるかもしれませんね。
 まあ、それは置いておきましょう。さて、属州ではどうですかね?属州の支配には道路は重要な役割をしたらしく、ローマの国費からも購われ、一部は属州からも毟り取ったようです。まあ、自ら出費を惜しまないところが、支配というものに対する情熱を感じさせますね。
 面白いのは、道路の沿道の土地所有者は、一部の税や公課を免除される代わりに、道路の維持管理を行わせたようです。どうやら現地調達をやっていたようですね。
 帝政期には、皇帝自ら私費で道路を建設した場所もあったようです。何しろ皇帝ってお金持ちですからね!
 さて、ローマの道って色々と特徴を持っていますね。ちょっと関係ないですけれども、馬車の車輪の間隔なども自動的に決まってしまったようですね。だって、石畳の上に馬車を走らせますから、石畳には轍が長い時間をかけて刻まれていきます。そうすると、車輪の間隔が轍と同じならばうまく走れるというので標準化が進んだなんてどこかで聞いたような気がします。
 さて、石畳で思い出しましたが、ローマ人が建造した道路の構造でもちょっと触れて置きましょう。よく整備され、現在も遺構が残るアッピア街道でも見るとしましょう。ニッポンレンタカーイタリア・アッピア街道を走る1イタリア・アッピア街道を走る2などは面白いですね。
 さて、この街道は、道幅は約15mほどですね。両端は縁石があり中央に2本、幅4.7mほどのがあります。そして、その両側に、2.3mの道が添えられています。15mっていうと、二車線で路側帯や歩道のついた幹線道路の規模ですね。こんな道路に馬車や徒の旅人が往来したのでしょうか?
 道の構造は地面をかなり深く掘り込んで、そこに平石を敷き詰めてから、砕石と砂とか火山灰と石灰を混ぜてつくった、原始的なコンクリートを打ち込んでいます。そして、さらに、石灰と砕石をのせ、一番上を1.5cmほどの火山岩の敷石を敷き詰めたようです。なんだか路面電車の電車道のような感じですね。
 この工法は、後の道路建設に引き継がれていきます。
 ローマ人は、信玄の棒道と同じ発想で道を作っていたようです。つまり、目的地に最短で着く真っ直ぐな道ですね。そして、道を水平に保つことに腐心したようです。その結果、谷にはアーチ式の陸橋を、丘なら切通しという力業を駆使していますね。そして、川には木造橋や後には石像の橋がかけられたそうです。しかし、川を克服するのはなかなか大変だったようで、渡し舟も大活躍のようです。トンネルは?碑文にはあるようですが、遺構としてはあるのでしょうかね?あまり、こちらは聞きませんからね。
 おかげで、イタリアを中心に、多くの遺産が残され、観光の目玉になるんですかね?まあ、多すぎて珍しがられないかもしれませんね。