ローマの道 その1
  さて、今度は伝説でない歴史ですかね。あんまりシュリーマンみたいなことをやっていても良くないですからね。考古学的な調査によれば紀元前10世紀初頭にパラティーノ丘にラテン人、クイリナーレ丘とエスクイリーノ丘にサビニ人の住居が認められるのだそうです。この連中がローマ市を繁栄させ建国へ持っていくのが紀元前7世紀中ごろと考えられています。まあ、大体伝説も正しいということですね。トロヤ戦争は紀元前1184年勃発?ですからね。伝説によれば、建国以来七代にわたって王に支配され、その後数代のエトルリア人王朝の支配を経て共和政へ移行しています。エトルリアの支配下に富を蓄積して自立していったのでしょうか?そのため、エトルリアの影響が色濃く残っているのだそうです。
  外部の人間が入ると国が富むのでしょうかね?そういえば、建国の伝説の中で、ローマの周りをめぐる柵だか何かで定めるってエトルリアの風習らしいですから、少しずつ垣根をめぐらせて拡大しつづけたんですかね。
 まあ、とにかく大昔からローマの中心は民会の開かれる市のほぼ中央の広場ですね。この広場はフォルムと呼ばれていました。これは現在のフォロ・ロマーノですね。一応民主的な政治が行われていたことになっています。
 この民主的な都市の中では、武装して歩き回るのは禁じられていたようです。例外は凱旋のときとかでしょうね。ですから、武装した人間たちの集まりの民会、つまり兵員会とかコミティア・ケントゥリアータとかいうやつは市の外の「マルスの野」で開かれました。こういうときにもちゃんと原則は守られていたようです。市域が広がると、このような政治の場でもある広場は、カエサルの晩年あたりからいくつか新しく作られたようです。今でも、フォリ・インペリアーリ通りのあたりに見られるのだそうです。
 ローマも、その市のあたりの地面の上でごちゃごちゃやっているうちは大した発展はありませんが、地中海貿易を抑えるようになると、その様相は変化していきます。まあ、ローマの政治家の所に弱小国は賄賂を送ったりいろいろしたんでしょう。まあ、美しい言葉ではローマの元老院議員様に謁見を求めるという行為ですかね。しかし、ローマの軍隊って何で強かったんですかね?まあ陸軍が強かったなら、道に尋ねてみますかね。何しろすばらしい道路網を整備したようですから。すべての道はローマへ通ずなんていったのですからね。
 このローマの道は紀元300年ごろで、372本8万5千キロあったのだそうです。多分、この整備された道路網でローマは支配の手を広げていったのでしょう。
 さて、この道路の建設権限を有していたのは誰なんでしょうね?ちょっと気になります。多分、道は国有地ですから、私有地を国有地へ転入することができる人物ですかね。そうなるとインペリウムを持っているやつですね。インペリウムの権限はかつては非常に大きかったようです。普通、このインペリウムimperiumというやつは古代ローマの国制での最高の下手をすると何でもできる包括的な行政的執行権。一般に「命令権」とかいわれるやつを持っています。軍司令権のみならず、ローマ市民に対する死刑執行をも含む法の執行権なんかも含まれていました。これによってローマ市民に対しても生殺与奪の権利を行使することができたようです。この権利を有することができたのは、共和政初期ではコンスル、統領とか執政官と呼ばれる人と、プラエトル、法務官にだけが持つことができる絶対的な権力でした。時代が下ると他の政務官のマギストラトゥスなどにも与えられるようになります。しかし、権利を手中にする人が増えると、この絶対的ともいえる権利は、希薄化し、特にローマ市民が即決の死刑執行から守られるようになると、この権利もあまり大したことはなくなるというわけです。このインペリウムという権利を保持できる期間は原則として1年限りという決まりでした。しかし、共和政末期には延長される例が現れ、帝政への足がかりとなっていきます。事実、初代のローマ皇帝アウグストゥスが皇帝へとなっていくのに、このインペリウムが大きな役割を果たしていきます。まあ、みんな決めるのがいやになって一人の人間に権利を集約して楽をしたがるんですかね?
 あれ、また横道です。
 さて、道の建設はインペリウムの権限によって命ぜれれました、実際の工事担当はケンソルcensorの権限で行われたようです。このケンソルというのは5年ごとに選ばれる18か月任期の役人で、全市民の戸口・財産調査これがケンススと呼ばれこの役職の重要な役割だったようです。なんだか税務署の役人みたいですね。徴税ですかね?他には騎兵査閲や、元老院議員の私的道徳まで問題にしていたようです。いやなお目付け役を一手に引き受けていたんですかね?しかしインペリウムはもっていなかったようです。しかし、政治的な発言力は大きく、帝政期に入ると皇帝がこの仕事をも行うようになっていきます。まあ、このケルソンが国家事業を専門に請負う業者行わせますから業者との癒着があったに違いません。なんだ、この時代も土建屋とつるんで悪事を働いていたんですかね?それでケルソンの名前を付けた街道があるんですね。アッピア街道なんかもアッピア街道Via Appiaなんてのも紀元前312年にケンソルであったアッピウス・クラウディウス・カエクスが着工させたので自分の名前を付けちゃているんですね。まったくしょうがないですね。でもそれだけの権力を有していたということなんでしょう。
 しかし、ローマ人って大土木工事が大好きですから、まさか、土建屋の天国だったんですかね?ちょっと気になります。まさか土建屋上がりの皇帝とかいなかったんでしょうね?ちょっと長くなってきましたから、この続きは次回ですね。