思考におけるコペルニクス的転換
 近頃、学習とか、勉強とか言われることに関心が高まってきました。まあ、以前はこの分野で生きてきましたからね。しかし、ちょっと違った分野で仕事をしていると、逆に気が付くことなどがありますね。それは、論理的な思考能力です。結構、この論理というものを振り回せる人間って希少価値があるのでは?と思います。
 このごろは、コンピュータ相手の仕事をしていますが、コンピュータを扱っている人間でも、非論理的な経験則を元にコンピュータを扱っている人もいますね。まあ、こういった人は、マニュアルなどをきちんと読みませんから、経験則が破綻したとたんに音を上げざるを得ません。
 これに対して、経験則に欠ける人でも、論理思考が十分に可能で、しかも、読解力があると、マニュアルなどを参考にトラブルシュートができますね。このあたりの違いって、何でしょうか?どうも、言語能力の差のような気がします。
 高い言語能力、まあ読解力というのは、論理思考を軸とした思考の形のような気がします。まあ、近頃の流行のEQなんて言うやつですかね。
 確かに、非論理的な思考パターンや、段階的な思考手順ではなかなか解決できないことってあります。論理的な思考による、選択肢の切捨てと、それに伴う、飛躍というのができるかどうかが、人間の思考能力に関して、非常に大きな価値をもつような気がしますね。
 ちょっと矛盾しているって?段階的に、そして倫理的なのが優れているのでは?否、それは単に袋小路に入り込む思考形態では?と思うわけです。段階的な思考形態というのは悪くありませんが、袋小路の入り口を入ると、段階的に深みにはまって、理論を積み上げるたびに、絶望に近づくことがあるのでは?と思うわけです。
 論理的な思考によって、不可能を認識したとき、そこに何かの飛躍が見られるかというのが、大きなポイントと考えるわけです。倫理は、可能性を追求できます。しかし、不可能を可能に変えるためには、何らかの飛躍が必要ですね。ですから、厄介なのかもしれません。
 多くの人は、希望を実現することができるでしょう。しかし、ある人は、希望が見出せないものを研究して、それを超えることで希望を見出すことができるということですね。こういった、希望が見られないものの中に、希望を見出す能力って、やっぱりあるのだと思うわけです。
 無を有に変える能力というのでしょう。これって、どうすれば身に付けられるのでしょうか?永遠の疑問かもしれません。まあ、人と同じ見方をして、ちょっと違った見方もできるという能力でしょうかね。そのように見えるようにするには?・・・多分、人よりたくさん見、そして、多様な価値観に身をさらさないとだめなんでしょうね。絶望の先に希望を見るか、希望を見、その先に絶望を見るというのの違いかもしれませんね。
 なんだか、書いていてよくわかりませんが、価値観の均質化された世界の中で、独自のマルチな価値観というのが重要なのかも知れないなと思う次第です。しかし、この、マルチな価値観って難しいですね。ある面においては長所であると認め、別の面では短所であることを同時に認めないといけなくて、その短所を、長所に変えるコペルニクス的転換を働かさなければなりませんからね。
 まあ、このコペルニクス的転換ができれば、苦労しませんね!凡人には難しいことです。