南海泡沫事件 その2
 南海泡沫事件、これって今となっては結構不思議な事件のような気がします。夢多き時代の産物ですかね?まあ、日本でもちょっと前にあったバブル事件と同じです。そして、山ほど国債を発行してしまった国の足掻きみたいなものですからね。いまや、そのつけが・・・。やめておきましょう、ロマンチックではないですからね。海外に借金はない、国民から借金しているだけだ!と豪語されている方々もいますから。
 さて、フランスでは、スコットランドの財政家がちょっとうまいことをやりました。しかし、英国では中央銀行がすでに存在していたため、こちらと競合することは見えていました。
 何しろ、英国の中央銀行は東方貿易を通じて、銀行家は風向きにも関心を持たなければならないといって、風見を置いて自戒としていたようですからね。まあ、航海は風任せ、船の到着の遅早は市中金利に大きな影響を与えた時代を生きてきた連中ですからね。
 さて、なぜ英国はちょっと慎重だったか?それは多分、投資による利潤というものに関して、経験があったためのような気がします。しかし、それが現実の利益につながることを、誤解があったかもしれませんが、皆が認識したがために起こった泡沫事件であったような気がします。それは、英国の東インド会社がなぜ、あれだけ強大になれたかというあたりにあるような気がします。
 さて、東インド会社が創られる前の東方貿易のパターンは、1航海毎に出資者を募り、船を出すという形式でした。しかし、これでは、船が遭難したり、積荷を喪失した場合、売上がありませんから配当も出ません。仮にうまくいったとしても、売上は出資額に応じて、出資者に分配されてしまいますから、みな利益を上げることはできますが、資本として蓄積することはありませんでした。したがって、この段階では一攫千金を狙うしかないわけです。そういえば、ご主人に何か積むものはないかと少年が言われて、私はこれしかもっていませんと、猫を差し出し、それが莫大な富を生む話なんかこの頃では?ちょっと主人公の名前も忘れましたが、ロンドン市長になった人物でしたかね?確か50の有名な話とかそういった子供向けの本で読んだおぼろげな記憶ですから、当てになりませんね。
 まあ、そういった具合の1回きりの大博打的な性格を持っていました。しかし、あるとき、出資金をプールするシステムへと変貌します。このシステムを正式に採用した始まりは、どうもオランダの東インド会社のようです。イギリスは、特許状の形で、恒久的な資本を運用する形式を16世紀の半ばにすでに運用していますがね。まあ、これがすばらしい効果を生むことになります。それは、資本の蓄積です。ある期間での利益を出資額に応じて分配しますが、すべてではなく、一部を船の増強や、商品の買い付けにまわすことでより多くの利益を得るための資金とすることが可能になり、さらには船団という単位へと広がり1隻の損失をカバーすることもできるようになっていきます。
 このようにして、安全のうちに大きな利益を得られるようになっていきます。まあ、発想としては赤信号みんなで渡れば怖くないと同じパターンです。誰かは生き残れるというわけです。
 こういった、現在の株式会社のシステムのようなものを発達させていきます。それに乗って、オランダ東インド会社という巨大資本が育っていきます。
 英国は?もちろんこれに追従していこうとしますが、資本の集中が困難であるため、中央銀行の出番となるようです。それと、もう一つは出遅れたためにジャワの方から締め出され、インド経営を行ったためですかね?
 あれ、また南海泡沫会社事件から外れてきましたね。困りました、どうもイギリス・オランダ・フランスの年表を並べないとわかりにくくなりそうですね。
 1700年あたりから1720年の南海泡沫事件までの年表を用意しましょう。それから、続けましょう。まったく準備不足でいけませんね。